Czech Japanese
Christian Fellowship
チェコ日本語キリスト教会
救いの証(あかし)

救いの証(あかし)
28/11/25, 08:00
私にとって、どう努力してもぬぐうことのできなかった恐れや不安が、あることをきっかけに大きく変わり始めました。そのきっかけは、イエス・キリストの十字架の意味を知っていく道にありました。私がどのようにしてイエス・キリストに示された神の愛を知り、罪と死の苦しみから救い出されたのか、そして今は心の深いところにある確かな安心の中で生きているのかを、お話したいと思います。
*まずは、私がイエス・キリストに出会うまでのことについてお話をしましょう。
私は岡山県の出身です。両親は、私が10代の終わりに離婚をしました。思春期になって両親への批判を強める頃から「人は何のために生きているのか?」「人の生きる喜びや幸せとは、いったい何であるのか?」とより深く考えるようになりました。私は自立を決心し、高卒で働き、22歳で結婚、そして23歳で親になりました。両親を反面教師と思って、良い親になり幸せな家庭を築こうと懸命に頑張りました。子育ての本、宗教、思想、哲学などの本もたくさん読みました。何とかして心の空しさを埋めたかったのです。しかし、心の恐れや不安は減ることなく、良い親になれない罪悪感に苦しんで、私は生きる希望を失ってしまいました。第二子の出産後間もなく拒食症を患い、体重は34kgにまで落ちて命の限界に迫りました。その時、私の心に明かりを灯してくれたのは、二人の子どもたちです。どんなにダメな私であっても、「お母さんが大好 きだ」と言ってくれる子どもたちの一途な姿がそこにありました。私は「この子どもたちのために元気になりたい」と思いました。そして自分の人生に生きがいを見つけることを考えました。親子関係づくりの指導者となり、ホスピスでボランティアとして働き、そして心身の健康づくりに携わる仕事を続けました。私は安心できる場所を求め、また人に対して自分が安心な人になりたかったのです。しかし、夫との関係に悩み続けて、結婚30年目の離婚となってしまいました。
*このような私がどのようにしてイエス・キリストに出会い、聖書の神を信じたのかをお話したいと思います。
私は、ともに生きる人を求めて再婚をしました。しかし夫の裏切りに合ってしまいました。どうしたらその人を「赦す」ことができるのか?大きな試練の時でした。そのころの私の姿は、からだは生きていても魂は死んでいるようであったと思います。
このころ私はTさん(男性、当時76歳)に出会います。洗礼は受けておられませんでしたが、「聖書の神」を信じているクリスチャンでした。そのTさんの姿はいつも喜びにあふれていて、どんな人も差別をせずに声をかけ、人を笑わせて安心を届けておられるのです。堅い顔をしていた人がTさんの声掛けによって緊張がほぐれ笑顔が生まれる、そ んな場面を何度見たかしれません。Tさんは私に会うたびに「聖書のことば」を伝えてくれるのです。当時の私にとって、そのことばの意味は良く分かりませんでしたが、何か新鮮な響きが心に残された感覚を、今でも覚えています。
ある日Tさんが私に「そろそろ洗礼を受けようと考えているんだよ。」と話してくれました。私は思わず「では、その日が決まったら教えてください。私も行きます。」と言いました。この時訪れた教会が、鎌倉海岸キリスト教会です。教会におられた方々の眼差しはやさしく、私を心から歓迎してくれていることが分かりました。他では感じ取ったことのない安心がそこにあったのです。私はこの教会に通うようになりました。
日曜日の礼拝に参加して賛美歌を歌うと、涙があふれて仕方がないのです。この当時、牧師を通して語られた聖書の話は新約聖書「マタイの福音書」からのものでした。5章、6章、7章と少しずつ進む解説の中には、これまでの人生で聞いたことのないことばがイエス・キリストによって語られていました。今振り返ってみると、まさにその聖書の箇所を通して、「赦し」について教えられていたことが解ります。夏を迎えると、洗礼準備のために牧師との聖書の学びが始まりました。そして秋になって、牧師から洗礼日が告げられました。
洗礼の準備に向かう他方では、夫の裏切りが続いていたことが明らかになって、私は人生の選択に迫られました。何度も自分の感情に負けて、今までの状況に留まろうとする私がありました。しかし、その度に「こちらだ」と別の道が示されるのです。眠れない夜が続きます。そして私はある日ある声を聴きました。「今は辛いだろうが、私と一緒に耐えていよう。」選択は離婚。
私の心はその選択において揺らぎませんでした。聖書のことばに支えられていたのでしょう。そして新しい一歩を踏み出したのです。1か月の間に引っ越しをし、法的書類のすべてが新しくなって、受洗の日を迎えました。Tさんが受洗をされてからちょうど1年後の12月2日、57歳の時でした。
私は聖書の神を信じました。イエス・キリストは私の罪のために死んでくださったこと、死んで墓に葬られたこと、三日目によみがえられたことを受け入れました。
*終わりに、イエス・キリストを信じてからの私には、決して取り去られることのない喜びと感謝があることを、ぜひあなたにお伝えしたいと思います。
私は「ほんとうの安心」を得ました。自分で処理することのできない恐れから解放されたからです。この安心はどんなことがあっても揺ぎません。なぜなら、神が私のすべての罪を赦してくださったからです。思い煩うこともずいぶん減りました。神に心配ごとをゆだねられるからです。死の恐怖からも解放されました。イエス・キリストの復活の姿に示された永遠の命を、私も受けたからです。私の心の中心は、神の愛を受け入れることで埋まりました。
私の両親や、夫であった人への思いが動き始めました。私は相手を攻めることができなくなってしまいました。それまで持ち続けていた思いを「忘れた」のです。その理由は、神が私の罪を「赦し」「忘れ」てくださったからです。私は、人も自分自身も赦せるように変えられたのです。
私は今、何よりも聖書ことばを頼りにして、神が与え続けてくださる幸いな人生を歩んでいます。決して変わることのないイエス・キリストの愛が私の魂を慰め励まし、永遠の希望へと導き続けてくださるからです。
もうすぐ救い主イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベントが始まります。イエス・キリストは十字架に架かり死ぬために生まれました。わたしたちの罪の身代わりの犠牲となって、滅びに向かう私たちを救い出すためです。そしてイエス・キリストの復活の姿と同じように、あなたにも永遠の 命を与える約束をしておられます。すべての人に対する救いは完了しました。条件はただ一つ。このことを信じるだけです。
記 N.Y
聖書の言葉:
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2章10、11節)